コップの大きさが違うので、分量の加減が少し難しい。できるだけ同じになるよう気を使いながら、美鶴は湯を入れていった。食器棚を見ても、ちゃんと揃っているものはほとんどない。母と娘の二人暮らし。お客が来ることなんてないから、不自由を感じたこともない。
二つのコップを両手に振り返る。ずいぶんとリラックスした態度でテレビを見ている聡と山脇に、腹が立つ。
「お、サンキュー」
「悪いね」
それぞれの短い礼を、美鶴は無視した。正直、コーヒーなど出したくはない。今すぐに帰ってもらいたい。だが、二人の言い分に勝る言い訳が見つからない。
「マジ……」
木造二階建アパートを見上げて、聡は呟いた。山脇は絶句している。
築何年なのかもわからない古ボケたアパート。住人の大半を貧乏学生と外国人労働者が占める中で、女の二人暮らしは確かに安全とは言えない。しかも……
「おばさん。今でもスナックみたいなトコで働いてんの?」
「そうだけど」
「じゃあ、朝までお前一人かよ」
「夜中に帰ってくることもあるよ」
「それにしたって、それまではお前一人だろう。だいたいおばさんが帰ってきたって、ここに二人じゃ危な過ぎるだろっ!」
「大声出さないでよ」
イライラした声に、聡は片手で口を抑える。
駅からも大通りからも離れたこの場所はかなり静かだ。だが閑静などといった上品な言葉には程遠い。外灯もまれな暗闇の中に、ときおり笑い声が聞こえる。アパートの一室に学生が集まっているのだろう。向かいは町工場だろうか? 灯りも消され、果てしのない暗闇だけが広がっている。
「危な過ぎるよ」
山脇の言葉に背を向ける。
「大丈夫よ」
「何が?」
カンカンと高い音をたてながら二階へあがる美鶴を、二人は慌てて追いかける。
「何が大丈夫なんだよ?」
「じゃあ、何が危ないって言うのよ?」
「何もかもだよ」
聡の言葉に山脇も頷く。
「さっきの男がまたいつ襲ってくるかもしれない。こんな暗い人通りの少ないところじゃ、襲うのに不都合はない。それに相手が女の一人や二人ならなおさらだ」
「ただの変質者よ」
冷たく突き放して、鍵を鍵穴へ突っ込んだ。
「そんな鍵、壊すのに一分とかからないね」
山脇の掌が美鶴の手首を覆う。その力強さに思わず息を呑む。
「ただの変質者かもしれない。でもそうだとして、もう二度と襲ってこないとも限らない。だいたいこんなところで暮らしてて今まで何もなかったの?」
「なかった」
「奇跡だよ」
「だから何? じゃあどうしろと言うの?」
「とにかく、君の安全が確保できるまで、こんなところに一人にさせるわけにはいかないよ」
「じゃあどうするつもり? まさか、中まで入ってくるつもりじゃないでしょうね?」
「そのつもり」
「冗談でしょう!」
今度は美鶴が大声をあげた。
「やめてよ。そんなことしたら不法侵入で訴えてやるからっ!」
美鶴の言葉に山脇は一瞬口をつぐみ、それからゆっくりと開いた。
「それもいいかもしれない」
「え?」
不本意ながらも、唖然としてしまう。
「いや、やっぱり警察へ行くべきなのかもしれない。さっきの僕の判断は間違ってたのかもしれない」
山脇は視線を落とし、少し眉を寄せる。
「めんどくさいとか、そんなこと言ってる場合じゃないのかもしれない」
美鶴の脳裏を浜島が横切った。銀縁のメガネがキラリと光る。
警察沙汰などを起こせば、どんな言いがかりをつけられるかわからない。
「やめてよ」
振り払うように言いながら玄関を開けて中へ入る。後ろ手で閉めようとするのを、片手で押さえられた。舌を打ちながら振り返る。
「たかが一回襲われたくらいで警察になんか行ってらんないわよ」
「じゃあ、やっぱり一人では居させられないな」
腕を伸ばし頭上で扉を押さえている。少し前のめりになりながら見下ろされると、余計に身長差を感じた。気後れしているのを悟られまいと、美鶴は必死に睨み返す。
「危ないって言うなら、アンタだって危ないかもしれないじゃん。私、アンタの事なんて全然知らない」
「彼と二人でいるよ。君と二人っきりになることはない」
「親が心配するんじゃない?」
「そんな心配はご無用だね」
「アンタが良くてもあっちはどうかしら?」
美鶴が顎で指す方向には、携帯でメールを送る聡の姿。なにやらそわそわして落ち着きがない。二人の視線を感じると、慌てて携帯をポケットにしまう。
「用があるなら帰ってもいいのよ」
「別に用なんかねーよ」
疑うような美鶴の視線に、聡は一歩前へ出た。
「用なんかねーって。それよりも美鶴、お前やっぱし心当たりとかねぇの?」
「ないって言ってるでしょう。しつこい!」
「でもさぁ、やっぱおかしいって。制服のその白いの。それってやっぱりカク……」
聡はそこで言葉を切った。彼にとっては口にするのも憚られる。聡の言葉を山脇が引き継ぐ。
「僕も同じ。だいたいこんな短時間のうちに二度も覚せい剤に遭遇するなんて、やっぱり普通じゃないよ」
「覚せい剤かどうかもわからないじゃない」
「違うと思う?」
大きな瞳は、少し笑みすら含んでいる。口先だけの嘘など、通用しないだろう。
違うと思う?
その質問に、だが美鶴は素直に答えたいとは思わなかった。
「私には関係ない」
はぐらかしたとも思える美鶴の言葉に、意外にも山脇はその表情を緩めた。
「本当に関係ないのか、ちょっと考えてみないか?」
そうして最後にはニッコリと笑う。
「それとも、警察へ行く?」
美鶴が嫌がるのはお見通しだ。言葉で敵う相手ではないらしい。
「勝手にすれば!」
吐くように怒鳴ると、美鶴は奥へと入っていった。
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